新1万円札に渋沢栄一なぜ?経歴は?福沢諭吉から40年ぶりに変更!


政府は2024年頃をめどに、1万円などの紙幣の肖像画を変える準備に入った。
1万円札の肖像は1984年に聖徳太子から福沢諭吉になり、今回、渋沢栄一に変更されると
40年ぶりの変更になる。
他にも5000円札は樋口一葉から津田梅子、1000円札は野口英世から北里柴三郎
変更されるようです。




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渋沢栄一について

では、渋沢栄一とはどのような人物なのでしょう?

・名前:渋沢栄一(しぶさわえいいち)
・生誕:1840年3月16日(天保11年2月13日)
・死没:1931年11月11日(昭和6年11月11日 満91歳没)
・出身:武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)
・職業:幕臣、官僚、実業家、教育者

第一国立銀行(現、みずほ銀行)や東京証券取引所、一橋大学、東京経済大学など
多種多様な企業、学校の設立・経営に関わり「日本資本主義の父」ともいわれる。

真面目であるが、かなりの女好きであったと言われていたそうで、
妻以外に2人の女性(一人は愛人、もう一人は後に離婚・再婚し後妻になった。)
との間に子供が七人(全員で10人)いた事が判明している。

また、当時としては珍しく多様な性癖があったとも伝えられており、
この様な事から過去に何度も紙幣の肖像画への採用が検討されるも
見送られてきたそうです。

しかし、ここにきて紙幣の肖像画に抜擢されましたね!

渋沢栄一の生い立ちは?

渋沢栄一は
1840年3月16日(天保11年2月13日)に
武蔵国(現在の埼玉県深谷市)の農家の子供として生まれます。

勉学に励みながら、農家の手伝いもしていたようですね。

1858年に渋沢栄一は19歳で、従兄・尾高惇忠の妹である尾高千代と結婚します。

1861年に武蔵国から江戸へ出て、儒学者・海保漁村の門下生になりつつ、
北辰一刀流の道場にも入門します。

尊王攘夷思想の志士たちの影響を受けた渋沢栄一は
高崎城乗っ取りの計画をしますが、従兄・尾高惇忠に説得され中止。

その後、京都へ向かいますが、八月十八日の政変直後で、
尊王攘夷運動に行き詰った渋沢栄一は、一橋家家臣の推挙によって
一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えることになります。

徳川慶喜の幕臣となる

1867年、徳川慶喜が将軍となった為、渋沢栄一は幕臣となりました。

そして、パリで行われた万国博覧会で御勘定格陸軍付調役の肩書を得て従い、
フランスへ渡航します。

フランスでは、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役
その後は、後開成所奉行支配調役に就任しています。

大隈重信に説得され大蔵省に入省

慶応4年(1868年)渋沢栄一は明治新政府から帰国を命じられ、
同年11月3日に日本に帰国します。

帰国後、明治2年(1869年)1月に商法会所を設立しますが、
大隈重信に説得され大蔵省に入省します。

国立銀行条例制定などに携わりますが、
明治6年(1873年)大久保利通や大隈重信と対立関係となり退官となります。

実業家へ転身

渋沢栄一は退官後、実業家へ転身して
第一国立銀行(現、みずほ銀行)を設立します。

第一国立銀行の頭取に就任した渋沢栄一ですが、
この他にも、七十七国立銀行などの地方銀行の設立指導を行うようになります。

また、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、田園都市、秩父セメント
帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所など、
500以上の企業設立に関わりました。

ちなみに、「bank」「銀行」
訳したのも、渋沢栄一と言われています。

東京株式取引所東京手形交換所などの設立にも関わっていました。

そのため渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれるようになります。

日本主義経済の発展に貢献した渋沢栄一は、

昭和6年(1931年)11月11日、91歳で亡くなっています。

まとめ

いかがだったでしょうか?

今回は「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一について調べてみました。

40年ぶりに1万円紙幣の肖像画が変更されそうですが、

福沢諭吉からこの渋沢栄一に選ばれたのも納得できる経歴ではないでしょうか?

ただ、紙幣の変更は莫大な費用も掛かりますし、賛否両論あると思います。

元号が「令和」に変わったのと、前回の紙幣変更からちょうど20年と

いうのもあるのかもしれませんが、「特に変える必要はない」との声もあります。

大きな混乱がなく、新しい紙幣が誕生することを祈ります。




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